水霊

水霊

2025.2.14 Fri - 3.8 Sat
11:00-18:00

日・月・祝 休廊
オープニングレセプション: 2025.2.15 sat 17:00 - 19:00

「水の無垢と火の無垢」

土偶はどのように生まれるのか、との問いには「焼かれることで生まれる」と答えるのが正しい。素焼きの土人形が土偶だからだ。いっぽうで作家である自分・古川日出男は、しばしば本を生んでいる。書物はどのように生まれるのか、との問いに誤って「焼かれることで生まれる」と回答したとする。かつ、実践したとする。どうなるか? 本は焼かれ切ってしまえば消滅する。

髙橋恭司は写真家として知られているから、彼はもっぱら写真を撮っているのだと言える。では写真の撮影とは何をしているのか。普通は「対象(被写体)を撮っている」と回答できる。しかし彼の写真は被写体をそのまま撮っているとは思えない。たとえば本を読むという行為を考える時、じつは読書の最中の時間よりも読後感のほうが決定的だったりする。その本がよかったのか悪かったのか? 面白かったのかつまらなかったのか? などと他人から問われた際に、われわれは読んでいる途上の印象を口にするわけではない。その、対象となる本を離れてしまってから、対象となる本を手放してしまってからの印象で「いい」「つまらない」「すごい」などと答えている。そして彼・髙橋恭司のカメラは、そんなふうな読後感のような何かを撮っている。

本展では写真家として認識されることの多い彼・髙橋恭司がまずは画家として、小説家として認識されることが多い自分・古川日出男がまずは詩人として、それぞれの表現の起点に立つ。ギャラリーというのは不思議な空間だ。そこに「何が展示されるか」で相貌を変えること、を第一義としている。オリジナルの貌はつねに消滅を意識しているのだと言い換えられる。が、こんな定義は嘘っぱちだろう。なにしろ LOKO GALLERY は場所というエスペラント語(それが loko だ)を冠していて、また建築物としてもモチーフがあって、それは井戸だ。渋谷区の、建物でありながら井戸である場所、井戸もある場所、にもかかわらず絶対に井戸ではないギャラリー。井戸を満たすのは水だが、そんな水はない。けれども読後感のような水ならば現出可能である。そして読後感であるならば撮影も可能である。彼はそれを撮るだろう。ならば自分は? 読後感に先立つ物体を、すなわち書物を、作れるだろう。

そんなものを作る自分を、今度は彼・髙橋恭司は動画にも収める。すると写真家として認識されることの多い彼はまず画家として本展にコミットし、それからビデオグラファーにも変じる。同様に小説家として認識されることの多い自分・古川日出男はまず詩人として本展にコミットし、それからパフォーマーだのアクターだのにも変じる。が、こうしたカテゴライズには何ら意味はない。そもそも画家の彼からして、やはり読後感を描いていた。彼の抽象絵画はそうしたものを描いている。その彼の配色にも影響を受けて、またエスペラント語の場所(loko)だの井戸だの渋谷区がここにあるだの、そうした一連の条件にクルーシャルに影響を受けて自分は詩篇「水霊」を綴っていて、それは要するに土地の読後感、場所(loko)の読後感というものを1篇の長詩に換えることだった。しかも彼の100号の絵画作品には、いったん貼られて、それから剥がされた写真たちがあって、これらの写真たちが自分の手製の書物「水霊」の表紙にも生まれ変わった。

それから自分たちは試みた。「焼かれることで生まれる」のか、本は? 土偶たちをそうしたように、空間を浄めて、すなわち場所(loko)そのものを浄化して、何かを誕生させうる火はあるか? そして井戸ではない井戸に、LOKO GALLERY の内側に、充ち満ちる水というのは見えるか?

見えるか? 撮れるか? 読めるか? 聞こえるか? いいや、感じられるか?

古川日出男


髙橋恭司 Kyoji Takahashi CV

1960年東京生まれ。写真家、画家。
1993年 詩人チャールズ ブコウスキーに処女写真集「The mad broom of life」のタイトルをつけてもらい、写真家としてデビュー。
それから長い間迷いながらも表現を続けている。

古川日出男 Hideo Furukawa CV

1966年福島県生まれ。作家。
1998年、書き下ろし長篇小説『13』でデビューして以来、掌篇から巨篇まで様々なタイプの小説を書き続けながら戯曲や詩や評論、ノンフィクション作品も発表。朗読パフォーマンスなども含む縦横無尽な文学表現活動を続けている。

公式WEBサイト「古川日出男のむかしとミライ」

(左) 髙橋 恭司/(右) 古川 日出男