LOST TIME

LOST TIME

2024.4.14 Sun - 5.12 Sun
入場料:無料

キューレーション 小林健(KKAO)

日本を代表する写真家・髙橋恭司による個展。2022年に500部のみ限定出版された作品集『Lost time』(出版:POST-FAKE, アートディレクション: Christophe Brunnquell)。

現在では完売となり入手困難となった『Lost time』収録作品から厳選したオリジナル・プリントを展示する。また、同じように花を撮った90年代のヴィンテージ・プリントから撮り下ろしの最新作も合わせて展示する予定。髙橋と花の30余年の時間軸と共に、『Lost time』において髙橋がテーマとした「失われた時は ふたたび 見出されるということ」を再考する。

2022年に花の写真をまとめた作品集を出版する際、髙橋は『Lost time』と名付けた。背表紙には髙橋の手書きメモがそのまま印刷されており、「失われた時は ふたたび 見出されるということ」とある。ふたたび見出されるべき喪失、とは何か。

アトリエで花を撮りながら応えたインタビュー動画の中で、高橋はカメラのフォーカシング・スクリーンを見せながら「ファインダー越しの花は綺麗だ」と述べていた。今目の前にある花ではなく、スクリーンに浮かんだ花。髙橋の目は今を直視することをやめている。スクリーンには、まさに目の前から過ぎ去っていこうとするイメージが、写真になる前の仮初の姿が写し出されている。私たちが写真(真影に似せて描く)あるいはPhotography(光を描く)、と無自覚に呼んでいるそれの本質は服わぬものだ。髙橋の発言はその服従しないイメージの所在を問うている。目で見た現実と、カメラのスクリーンに結ばれた像、フィルムに焼きついた像、またその後写真として印画紙に現れた像は全て別物だ。現実の物体を離れて媒介されるイメージは、同じものを表象するが同じものではないからだ。今そこにあったはずのイメージが、絶えず形を変え姿を転じていく。この多重の転移によって、写真と現実はいくばくかの乖離を示すだろう。その結果的な現実との乖離こそ写真家の表現が現れる領域ではないのか。転移することで、次第にそれは過去を堆積させていく。過去は未来においては失われた時だ。写真に転移した花のイメージを見る。かつて花であったものから何が失われて、何が表れているだろうか。写真に写るものが花そのものではないならば、きっとそれは花の中に潜んで、花を花たらしめていた本質(Geist)なのだろう。花、とは生殖器である。となれば、花を生ける、とはなんと残酷な響きの修辞だろうか。高橋の、この無造作な切り花の写真に漂うGeistとは去勢である。私たちはそこに、成ることのない種の幻を見て美しいと思うのだ。この幻が髙橋の写真には写る。失われた時間としての過去は、写真の中に漂う幻影となって、それを見る誰かによってふたたび見出されるだろう。

『Lost time』はプルーストの引用だ。『失われた時を求めて』は過去と記憶の長大な物語で、最終章は『見出された時 (Le temps retrouvé)』である。ここでの「見出す」とはふたたび見つけることだ。紅茶とマドレーヌの味と香りに幼少の記憶が惹起されていくというあまりにも有名な一節のように、何かを見出す(retrouver)ためには、それが既に経験されたものでなくてはならず、さらなる前提としてはその経験が自らの中で一度は失われていなければならない。髙橋の撮る花の写真を見て綺麗だと感ずるならば、それはその感情をかつて経験したという記憶が写真を契機として今ふたたび見つけられたからだ。髙橋が綺麗だと言ったのは、眼前の花そのものではなく「ファインダー越しの花」なのである。その花を写真によって表象することでいずれどこかの誰かが何らかの感情を見出す、その現象の起点が花であることを綺麗だと言っている。過去を、経験を、時間を失うこととは、それがやがてふたたび見出されるための約定に他ならない。

小林健(KKAO)

髙橋が『Lost time』に寄せたテクストには、現実にある花よりも、写真の花のほうが美しいと書かれている。その香りを嗅ぎ、実際に触れることはできないが、写真になった花は「時をもっている」「記憶とつながっている」という。プルーストとナボコフを引用しつつ髙橋が語るのは、写真に移された現実がもたらす愉楽である。現実を写真に移すということは、遠くへ投げるということ。いまここにあるものを過去にするということ、積極的に失うということ、死を与えるということ、である。
 悲しいことのように思えるかもしれない。しかし、私たちは皆、失われた出来事の断片によってこそ、構成されているではないか。いま生きている空間から切り離されることによって、写真は過去・現在・未来という習慣的に分割された時間性を越え、私たちの記憶や夢想の領域を形づくり、沈黙を強いられてきた亡霊の声を届ける。そう考えれば、写真は、ただ死を与えるのではなく、再び生き直される時間を与えている。時間を失うことによって永遠化された現実を、いまここで私たちは何度でも思い出すことができる。感官の経験を通して、取り戻すことはできないまでも、何度でも手を伸ばすことはできる。

飾り気は削ぎ落とされ、重なり合う花びらの一枚一枚に気品ある色彩が揺らいでいる。薔薇は恥じらいながら隠された記憶を私たちに告げる。「美しい」という言葉が口から漏れ出る。目の前にある写真に向かって発せられた「美しい」という言葉は、どこか遠くの生命線に触れている。

安田 和弘 (写真家・写真研究者)